女性の体に嫌悪感を抱くのは仕方ないことです。なんとなくそう思う。
自分の体もそんなに好きではないのはスタイル云々の前に小さい時のちょっとしたトラウマにあるのだろう。
書いてしまうと嘔吐しそうな気がするので、書かずに違うことを考えたい。
EMDRというトラウマに対する療法(?)を教えてもらった。あなたが耐えられないなら紹介するよ。
カウンセラーの人は優しいなあと思いながら、私はまだ彼女の前で素直に泣くことができない。
そろそろ2年になる。時々嫌いになりそうな時もあったけど、それもカウンセリングの一環なんだろうなと考えて接してしまって、それさえ見破られている感じがした。どうにか私を怒らせようとしてくれた彼女に、私はまだ吐き出せないでいる。この間パニックになった時に、彼女に電話をしてしまった。きっと、他の人のカウンセリングが入っているはずだ、と思っていたが、その人がこなかったらしく、私に時間を割いてくれた。申し訳ないと思いながら、ありがたかった。親のところに避難をしてはどうかと提案をしてくれた。宗教のことを口に出さないように親に助言もしてくれた。その助言に意味はなかったのだが、それと同時に、この親は変わることはないのだと改めて知ることができた。私が今しなくてはならないこと、まだまだカウンセリングが必要であること。非常に危うい線の上で生きている。なんとなく、自分が30までに死んでいる気がする。
客観的に自分を見ると、本当どうしようもない人生なきがする。体に傷をつけてしまった時の私に、やめろ!!と言って止めてやりたい。いつか肯定できる日が来るのだろうか。基本的に自分で自分を肯定できない人間だ。きっとここが病んでいるか病んでいないかの境目のような気もする。他人に肯定されて、やっと自分を肯定できる。よかった、私は普通に見えるのか、みんなと同じように扱ってもらえるのか、よかった、よかった。ああでも、傷を見せたらここで生きられないのかもしれない。誰か、傷を肯定してください。そんな感じで生きている。
あなたはもっと感情を出していいのよ、と言ってもらえる。でも、どうやって感情を表にしたらいいのかがわからないのだ。泣くことにも、怒ることにも、ためらいがある。私が声を荒げる前に、私を責める誰かがいる。それは私の頭の中にもいるが、現実世界にも実際にいるのだ。
知り合いがACについて語っていた。ネットリテラシーうんぬんの話になるかもしれない。見なければ良いという言葉はもっともだと思うけど、それでねちねちいうのなら、つぶやかなければいいのではないか。こうやって誰に見られるかわからないけど、読みたくない人はブラウザバックするような、そういう媒体で書いたらいいんじゃないの。って思う。私がその知り合いに良い印象を抱いてないということもあるが、インターネットでその人の一部を見て、全てを判断してしまうのも勿体無い気もする。まあ人を判断する時というのは現実でも同じか、いいか。
いつでも自分が被害者みたいな目線の加害者を見る。私もそうなっているのかもしれない。それがすごく怖い。
幼少の時のことを思い出して、彼氏だった人を拒んでしまったことを思い出す。申し訳ないと思っていた時に、「ああいうことされると傷つく」と言われて耐えられなくなった。怒りを覚えてしまった。彼にとっては本当に関係ないのだ。私の過去は。そりゃそうだ。肌と肌が触れ合うのが気持ち悪い
深夜はいろいろと思い出す。日記をやぶってぐしゃぐしゃにしていたら、末兄に、だからお前は弱いんだよ。と言われたことも思い出した。今日は思い出す日で、書き残す日だ。嫌になる。末兄だけが私のことをわかってくれている。と思っている。思い続けている。末兄に気持ち悪いと言われたから、傷を残すことをやめた。そんな末兄は結婚をして、幸せそうにしている。私のような子供を助ける職業をしている。他の家族のことは正直どうでもいい節があるが、末兄には幸せになってほしいと思う。もうすぐ一歳の誕生日を迎える姪にも、すくすくと育ってもらいたいものである。
うだうだ言っていてもしょうがない、と喝をいれてくるやつも、だいたいどっかでうだうだ言ってるのだ。
そういうものに感化されるのをやめたいかぎりだ。
自分の体もそんなに好きではないのはスタイル云々の前に小さい時のちょっとしたトラウマにあるのだろう。
書いてしまうと嘔吐しそうな気がするので、書かずに違うことを考えたい。
EMDRというトラウマに対する療法(?)を教えてもらった。あなたが耐えられないなら紹介するよ。
カウンセラーの人は優しいなあと思いながら、私はまだ彼女の前で素直に泣くことができない。
そろそろ2年になる。時々嫌いになりそうな時もあったけど、それもカウンセリングの一環なんだろうなと考えて接してしまって、それさえ見破られている感じがした。どうにか私を怒らせようとしてくれた彼女に、私はまだ吐き出せないでいる。この間パニックになった時に、彼女に電話をしてしまった。きっと、他の人のカウンセリングが入っているはずだ、と思っていたが、その人がこなかったらしく、私に時間を割いてくれた。申し訳ないと思いながら、ありがたかった。親のところに避難をしてはどうかと提案をしてくれた。宗教のことを口に出さないように親に助言もしてくれた。その助言に意味はなかったのだが、それと同時に、この親は変わることはないのだと改めて知ることができた。私が今しなくてはならないこと、まだまだカウンセリングが必要であること。非常に危うい線の上で生きている。なんとなく、自分が30までに死んでいる気がする。
客観的に自分を見ると、本当どうしようもない人生なきがする。体に傷をつけてしまった時の私に、やめろ!!と言って止めてやりたい。いつか肯定できる日が来るのだろうか。基本的に自分で自分を肯定できない人間だ。きっとここが病んでいるか病んでいないかの境目のような気もする。他人に肯定されて、やっと自分を肯定できる。よかった、私は普通に見えるのか、みんなと同じように扱ってもらえるのか、よかった、よかった。ああでも、傷を見せたらここで生きられないのかもしれない。誰か、傷を肯定してください。そんな感じで生きている。
あなたはもっと感情を出していいのよ、と言ってもらえる。でも、どうやって感情を表にしたらいいのかがわからないのだ。泣くことにも、怒ることにも、ためらいがある。私が声を荒げる前に、私を責める誰かがいる。それは私の頭の中にもいるが、現実世界にも実際にいるのだ。
知り合いがACについて語っていた。ネットリテラシーうんぬんの話になるかもしれない。見なければ良いという言葉はもっともだと思うけど、それでねちねちいうのなら、つぶやかなければいいのではないか。こうやって誰に見られるかわからないけど、読みたくない人はブラウザバックするような、そういう媒体で書いたらいいんじゃないの。って思う。私がその知り合いに良い印象を抱いてないということもあるが、インターネットでその人の一部を見て、全てを判断してしまうのも勿体無い気もする。まあ人を判断する時というのは現実でも同じか、いいか。
いつでも自分が被害者みたいな目線の加害者を見る。私もそうなっているのかもしれない。それがすごく怖い。
幼少の時のことを思い出して、彼氏だった人を拒んでしまったことを思い出す。申し訳ないと思っていた時に、「ああいうことされると傷つく」と言われて耐えられなくなった。怒りを覚えてしまった。彼にとっては本当に関係ないのだ。私の過去は。そりゃそうだ。肌と肌が触れ合うのが気持ち悪い
深夜はいろいろと思い出す。日記をやぶってぐしゃぐしゃにしていたら、末兄に、だからお前は弱いんだよ。と言われたことも思い出した。今日は思い出す日で、書き残す日だ。嫌になる。末兄だけが私のことをわかってくれている。と思っている。思い続けている。末兄に気持ち悪いと言われたから、傷を残すことをやめた。そんな末兄は結婚をして、幸せそうにしている。私のような子供を助ける職業をしている。他の家族のことは正直どうでもいい節があるが、末兄には幸せになってほしいと思う。もうすぐ一歳の誕生日を迎える姪にも、すくすくと育ってもらいたいものである。
うだうだ言っていてもしょうがない、と喝をいれてくるやつも、だいたいどっかでうだうだ言ってるのだ。
そういうものに感化されるのをやめたいかぎりだ。
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